安曇野の八面大王

江戸時代、松本藩が編纂した地誌「信府統記」に、
八面大王の伝説が記されています。

昔、中房山に魏石鬼(ぎしき)という名の鬼賊がいた。
八面大王
を称し、永年人びとを困らせていた。
044218.jpg
延暦24年(805年)、坂上田村麻呂が、泉小太郎が住んでいた「川合」▲で
軍兵を揃え、翌年、魏石鬼を退治した。

 
文中にある川合の「川會神社」に行ってみました▼
011215.jpg 003215.jpg 
川合からは、魏石鬼の宮城があったという「有明山」が一望できます▼

坂上田村麻呂は、魏石鬼の復活を怖れて、体や剣をバラバラにし、
耳は耳塚、首は筑摩神社(松本市)に埋めさせました。
043218.jpg  
魏石鬼の耳を葬ったという、耳塚を探しました。
穂高町有明の大塚神社にあると分かり、スマホのナビで突き止めました。
行ってみると、田んぼの中にポツンと鳥居があります▼
015235.jpg 
穂高町にある古墳の一つという説があります。

さらに、魏石鬼の剣が埋められたという満願寺に行きました▼
坂上田村麻呂が、魏石鬼を退治するために、満願寺の
十一面観音に祈願したという伝承が残っています。

026218.jpg 
この辺りの古墳は、安曇野を開拓した安曇氏が葬られた
と考えられます。
ということは、八面大王のモデルは「安曇族のリーダー」という
仮説が立てられます!

038218.jpg 
調べてみると、安曇郡に「魏磯(たかいそ)」という名の郡司が
いたとされ、別名「魏石鬼」と似ています。
坂上田村麻呂に「鬼退治」を命じた桓武天皇は、母方が百済系渡来人で、
地元の豪族を退け、百済系を重用したのです。

034238.jpg 045238.jpg 
満願寺への道は険しく、人の足跡よりも、サルの足跡の方が多い所で
途中から歩いて向かいました。

有明山の麓、穂高温泉郷にある「八面大王の足湯」にも寄りました▼
017238.jpg 
桓武天皇は蝦夷征討のために、安曇郡の兵を出させて
陸奥へ行かせる命令を出しています。

それに、反発した安曇族の群司を懲罰するため、田村麻呂自らが
兵を率いたという説があります。

019238.jpg 
そういえば以前、燕岳を登る途中の中房に「合戦小屋」があって、
八面大王の民話を伝えていました。
合戦小屋辺りで、安曇族のリーダーは、征夷大将軍に敗れ、
鬼のレッテルを張られたというのが真相なのでしょうか?
スポンサーサイト

安曇族と八面大王@穂高神社

信州・安曇野に伝わる「八面大王」について調べてみました。

前回は、小林耕氏の著書「安曇族の抹殺と八面大王の正体」の説
を取り上げ、皇統をめぐる争いという説を取り上げました。

さらに、手掛かりを求めて、穂高神社に寄りました▼
030131.jpg  
北九州の海人族・安曇氏は海を司る神「綿津見神(わたつみのかみ)」と
その息子とされる穂高見命を、祖神(おやがみ)として祀っていました。

穂高神社は、安曇野開拓に功をたてた安曇氏が、穂高見命を奉斎した古社です。
015201.jpg 
穂高見命(ほたかみのみこと)の子孫である安曇氏は、「中国の春秋時代
揚子江下流にあった呉国の亡命者」という説があります。
そして、6世紀ころ信濃にやってきた(送り込まれた?)と、いわれます。
038202.jpg 
古代の日本に稲作技術を持ち込んだ安曇氏は、大和朝廷の重臣となります。

その後、皇統の争いに巻き込まれ、たび重なるヤマト王権への反逆で
苦難の道を歩んでいきます。
006201.jpg  
それでも、安曇比羅夫は▲天皇の命により、百済王を連れ、将軍として
白村江(はくすきのえ)の戦いに参戦しました。
穂高神社の「御船祭(おふねまつり)」は、玄界灘を行く軍船をぶつけ合い、
白村江での戦いを再現するお祭りです☆

019232.jpg 032232.jpg
天智天皇が崩御し、壬申の乱に勝利した安曇血統の大海人皇子が
天武天皇として即位すると、中央政界で復権します。

次に、八面大王が立てこもったと言われる、魏石鬼岩窟(ぎしきのいわや)
がある、有明山神社の方へ行ってみました▼
011202.jpg 
安曇氏と高橋氏は天皇の食事の世話をする仕事をしました。

ところが、792年、高橋氏との争いに負けた安曇氏の代表者は
佐渡へ流刑となり、衰亡していくのです。
021203.jpg 024203.jpg 
正福寺の右手に石仏が並ぶ道があり、歩いて行くと観音堂が見えてきます▲

民話「八面大王」では、都から坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が
鬼退治にやって来て、この岩窟に鬼が立てこもります。

026202.jpg  
実際は、巨大な花崗岩で組み立てられた、横穴式古墳です。
穂高町古墳群の一つで、安曇氏のものと考えられます。

中央政権からは、鬼のような扱いを受けたのでしょうか?
034203.jpg 

八面大王の正体@大王わさび農場

1月の雪が降った翌日、信州・安曇野にある大王わさび農場に行きました。

「大王」とは、安曇野の民話「八面大王」のことで、この地に
大王の胴体が埋められたと伝えられています。

008118.jpg 
昨年出版された、小林耕氏著「安曇皇統の抹殺と八面大王の正体」という
本を、推理小説のように面白く読みました☆

今回は、この著書の説を取り上げましょう!
信州・安曇野を開拓した安曇氏は、元は九州・博多湾岸にいた海人でした
042138.jpg  
安曇氏は、後漢の光武帝から「奴國王」の金印を授与された、我が国初の
中国王朝公認の国王となり、小林氏は「第一皇統」と位置づけています。

第二皇統は、朝鮮半島から倭国へ亡命した馬韓王が、九州の日向に入って
天孫降臨し、邪馬台国を吸収して倭国王家に同化した血統としています。

044138.jpg 
安曇氏の勢力だった大和国を、第二王統の馬韓亡命軍が征服し、
敗れた奴国・安曇国王の子孫は、信濃の松本盆地に逃亡!

その後、大和を高句麗からの渡来人「蘇我氏」の王朝が支配し
その血筋を第三皇統と名付けています。

日本書記などは、蘇我氏を逆賊扱いしていますが、飛鳥文化を開き、
独立国家を樹立したのは蘇我大王家である、と小林氏は指摘しています。
015121.jpg 
第二皇統の天智天皇の後、第一皇統の大海人皇子(天武天皇)が
即位し、安曇系政権となりました。

政権内で、藤原氏が天智皇統への転換を強引に進め、天武天皇の直系の
氷上志計志麻呂(ひがみしけしまろ)らを、流罪にします。


大王わさび農場内にある「大王神社」の拝殿には、大きなワラジ▼
0101231.jpg 
藤原氏の暗躍により、桓武天皇が即位し、蝦夷征伐に本格着手!
親戚関係にある坂上田村麻呂に、信濃にいる八面大王を打ち取るよう
密命を与えた、と推理できます。
雪に埋もれていますが、大王わさび農場前の八面大王親子像▼
051121.jpg 
小林氏は、小泉小太郎の民話や八面大王の正体は、氷上志計志麻呂
であろう、としています。


有明山の麓にある魏石鬼・八面大王の古墳をイメージした岩屋が、
わさび農場内にあります▼
019121.jpg 
中国の書によると、海神は八つの人の顔面を持つといいます。

志計志麻呂は海神族の安曇氏の皇統を継承できる地位にいました。

793年、田村麻呂の先発隊は、志計志麻呂抹殺と、祟りの無いように、
遺体を分けて事後処理を行ったのかもしれません。

023141.jpg
岩屋の中に入ってみると、安曇族が乗った宝船の石碑がありました▲

松本城が傾いた伝説

2017年元旦、初詣をしてから松本城まで歩きました。

青空が広がる良い天気で、銀色に輝く北アルプスを望みつつ
お濠には白鳥、そして漆黒の天守閣は絵になります☆
CIMG1834.jpg
観光名所となっている松本城も、明治時代には荒廃して競売にかけられたり
大きく傾いた状態になっていました。
そして「松本城が傾いているのは加助の祟りだ」と、うわさされました。
CIMG1856.jpg 
加助というのは、江戸時代、松本藩で「貞享(じょうきょう)騒動」という
一揆を首謀した人物です。
1686年、過酷な年貢に苦しむ農民を救おうと、加助たち同志は騒動を起こしたのです。
松本城太鼓門の門松▼
CIMG1860.jpg 
時の藩主は水野忠直公で、参勤交代のため江戸詰で、出費が多くかかります。

近隣の藩の年貢は、一俵を米2斗5升挽きであるのに、
松本藩では3斗4升挽きを厳命したことが発端です。
CIMG1853.jpg CIMG1845.jpg 
松本城で見かけたウサギ▲
加助が生まれ育った安曇野市三郷中萱(みさと・なかがや)には、義民をたたえた
貞享義民記念館」建っています▼
045109.jpg 
貞享3年、多田加助を首領とする同志は10月、中萱の熊野神社に集まって
密議し、2斗5升挽きの要求等5ヶ条の訴状を持って郡奉行に訴え出ました。

記念館の奥に熊野神社があります▼
050110.jpg 
およそ1万人の農民たちが、これに加勢しようと松本城を取り囲みました。

家老たちは騒動が長引くことと、江戸への直訴を恐れ
籾納めを2斗5升挽きと聞き届ける旨の覚書を出しました。

貞享義民記念館内の様子▼
006110.jpg 004110.jpg 
農民たちは村々に引き上げ、騒動は静まった加のように思われました。

ところが藩では、村々に対し覚書を返上させ、江戸へは真相を隠して注進し
首謀者とその子弟を一斉に投獄しました。

中萱公民館の隣にある加助神社▼      旧加助宅には「2斗5升の碑」▼
041110.jpg  035140.jpg 
11月、28人の者が極刑となり、加助は磔の刑となりました。

加助が処刑された刑場は、かつて丸の内中学校の北にあり
現在は、義民塚と碑が建てられています▼
010110.jpg 022110.jpg 
はりつけにされた加助が松本城をにらむと、天守閣が西に傾いたと言います。
加助は「2斗5升!」と絶叫しつつ息絶えた、と伝えられています。
011110.jpg CIMG1848.jpg 

養老坂と加助騒動<塩の道(17)

江戸時代、信州・松本平の住民は、生活に欠かせない塩や海産物を
日本海側から、千国街道経由で購入していました。

千国街道を行き来した庶者には
悲喜こもごもの人間ドラマがあった事でしょう。

江戸時代、加助騒動を起こして処刑された、多田加助もこの道を
通って安曇野から松本へ向かいました。

0901218.jpg 0111241.jpg   
千国街道は、安曇野から「熊倉の渡し」で舟に乗って犀川を渡り
養老坂を越えて松本に入る道筋でした。
熊倉の渡しから、現在の国道19号線沿いを南に進み
「泣坂」を登って行きます。

0021218.jpg
JR篠ノ井線の踏切手前に「多田加助夫婦惜別の岩」があります▲
近くには道祖神がたたずみ▼10月桜が咲いていました。
 0011228.jpg 0851221.jpg
貞享3年(1686年)11月16日、加助一族が騒動のかどで捕えられ、
加助と弟、12歳、3歳になる子供らが役人に引かれ、入牢に向かう
道すがら、妻お民との別れを、惜しんだ岩と伝えらています。

0121218.jpg 0151218.jpg
泣き坂を登りきると、松本トンネルへと続く国道に出ます。

ここから先の旧道は消滅していますが、歩いて行けそうな
それらしき藪の中を登ると、アルプス公園に向かう道になります▲
0741218.jpg
北アルプスが広がる大パノラマで、筑摩・安曇野が一望できます▲

貞享3年、松本藩では、年貢を納める際の籾(もみ)一俵を今までの3斗入れから
3斗5升入れに増徴するなどの厳しい命令がありました。
藩の年貢担当者が、村々を巡回するうち、安曇郡の中萱村の前庄屋・加助
が抗議をして、訴訟になりました。

0751218.jpg
松本平を展望する東屋のあたりに、養老坂の道標があります。

人や牛馬が踏みしめて、堀のようになった「ウトウ」と呼ばれる道が
ゆるやかなカーブを描く養老坂▼
0201218.jpg 
養老坂を登り切ると、松本市民にはお馴染みであるアルプス公園の
北端に出ます▼
老根田という縄文時代の遺跡が残る一帯を歩いていきます▼
0661218.jpg 0651218.jpg
加助らは、抜き差しならない事態に、一揆の力で出訴する事を決意。
一揆勢は、郡奉行に5か条の訴状を提出しました。
1万とも伝えられる百姓が、松本城を取り巻くように群衆したのです。

0621218.jpg
松本藩主・水野忠直は参勤交代のため不在で、城代家老は
百姓側からの訴訟内容をおおかた認めた回答書を手渡しました。
一方、江戸藩邸とも連絡を取って、藩主の裁可を得て年貢減免の
約束を反故にし、首謀者の逮捕を始めました。
 0261218.jpg 0551218.jpg
一般道に出た後、リンゴの果樹園を横切り▲こんどは急な坂を
下っていくと、松本盆地東側の山が見えてきます▼
0501218.jpg
騒動の首謀者と、その兄弟・子供が、ことごとく磔(8名)または
獄門(20名)という厳罰になりました。
加助の参謀格だった善兵衛の16歳になる娘おしゅんも
処刑されました。

0381218.jpg 0421218.jpg
近くにある海福寺に立ち寄りました▲
海福寺近くの平地は、戦国時代、越後の上杉謙信から武田信玄領だった
松本へ送られた義塩を一時、駐留させたところと言われます。
0451225.jpg 
下った所にある塩倉池▲の名前も、それに由来します。
千国街道沿いの町で、正月から2月にかけての風物詩「飴市」も
塩の初市が、飴も売るお祭りになっていったといわれます☆

0321218.jpg

カレンダー
01 | 2017/02 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 - - - -
カテゴリ
最新記事
月別アーカイブ
ブログランキング
ランキングはコチラ
  ↓   ↓
にほんブログ村 スイーツブログ 和菓子へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 長野県情報へ
にほんブログ村
信州のお菓子
FC2カウンター
最新コメント
最新トラックバック
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
天気予報

-天気予報コム- -FC2-