御嶽山と木曽義仲
2014年も残り1ヶ月余りとなり、この1年を思い返す季節になりました。
今年、信州で良かった話題としては、サッカーの松本山雅がJ1昇格決定!
悲しかったことは、御嶽山が噴火して多くの犠牲者が出た事‥
あれから、御嶽山の様子はどうなのか?展望できるスポットに行きました▼
木曽町の木曽街道沿いにある地蔵峠からは、御嶽山が一望できます。
頂上の剣ヶ峰下あたりから、依然として白く蒸気が上がっています。
地域経済の復興のためには、どんどん観光客が木曽に来てもらいたいものです。
御嶽山周辺の魅力として、世界遺産級の自然があり、滝が多い山として知られています。
地蔵峠を南に進む道中には「唐沢の滝」があります▼
ヒノキのアロマと、滝のオゾンに癒されます☆☆
木曽街道をさらに進むと、「木曽福島」という旧中山道の宿場町に出ます。
今から850年以上昔の平安時代、木曽に逃れてきた源義仲が幼少期を
過ごした邸は、木曽福島の興禅寺のあたりといわれます▼
幼名が駒王丸と呼ばれた義仲が2歳の時、父の義賢が討たれ、木曽の豪族・中原氏に
預けられました。
元服まで大切に育てられ、源家再興の時を待ちました。
興禅寺の墓には、義仲が死の直前に巴御前に託した遺髪が納められているとのこと▼
上の写真右端に松が植えられていて、これは巴御前が天寿を全うした地と言われる
富山県南砺市にある「巴松」の幼木を移植されたもの♪
興禅寺の庭▼ 観音堂▼
1180年、以仁王の平家追討の令旨を受け、義仲が挙兵した地は
木曽福島の隣の宿場・宮ノ越にあります。
旗挙八幡宮は義仲挙兵の地であり、元服もこの境内で行われたとされます▼
元服の際に植えたという樹齢800年のケヤキの巨木が、往時の風情を残しています。
27歳のときに千余騎の兵を従え、ここから関東・北信濃の兵を集め
北陸より京都に攻め入り平家を追討!
義仲は征夷大将軍に任ぜられたものの、鎌倉軍に敗れ31歳で討ち死にしました。
死ぬ間際に、木曽以来、苦楽を共にしてきた今井兼平に
「木曽の山をもう一度、見てみたかったな」と、一言だけ言い残したと伝えられます‥
義仲も御嶽山を懐かしんだのでしょうか?
宮ノ越に義仲館(よしなかやかた)という資料館があり、義仲と巴御前の像が目印です▲
今年、信州で良かった話題としては、サッカーの松本山雅がJ1昇格決定!
悲しかったことは、御嶽山が噴火して多くの犠牲者が出た事‥
あれから、御嶽山の様子はどうなのか?展望できるスポットに行きました▼
木曽町の木曽街道沿いにある地蔵峠からは、御嶽山が一望できます。
頂上の剣ヶ峰下あたりから、依然として白く蒸気が上がっています。
地域経済の復興のためには、どんどん観光客が木曽に来てもらいたいものです。
御嶽山周辺の魅力として、世界遺産級の自然があり、滝が多い山として知られています。
地蔵峠を南に進む道中には「唐沢の滝」があります▼
ヒノキのアロマと、滝のオゾンに癒されます☆☆
木曽街道をさらに進むと、「木曽福島」という旧中山道の宿場町に出ます。
今から850年以上昔の平安時代、木曽に逃れてきた源義仲が幼少期を
過ごした邸は、木曽福島の興禅寺のあたりといわれます▼
幼名が駒王丸と呼ばれた義仲が2歳の時、父の義賢が討たれ、木曽の豪族・中原氏に
預けられました。
元服まで大切に育てられ、源家再興の時を待ちました。
興禅寺の墓には、義仲が死の直前に巴御前に託した遺髪が納められているとのこと▼
上の写真右端に松が植えられていて、これは巴御前が天寿を全うした地と言われる
富山県南砺市にある「巴松」の幼木を移植されたもの♪
興禅寺の庭▼ 観音堂▼
1180年、以仁王の平家追討の令旨を受け、義仲が挙兵した地は
木曽福島の隣の宿場・宮ノ越にあります。
旗挙八幡宮は義仲挙兵の地であり、元服もこの境内で行われたとされます▼
元服の際に植えたという樹齢800年のケヤキの巨木が、往時の風情を残しています。
27歳のときに千余騎の兵を従え、ここから関東・北信濃の兵を集め
北陸より京都に攻め入り平家を追討!
義仲は征夷大将軍に任ぜられたものの、鎌倉軍に敗れ31歳で討ち死にしました。
死ぬ間際に、木曽以来、苦楽を共にしてきた今井兼平に
「木曽の山をもう一度、見てみたかったな」と、一言だけ言い残したと伝えられます‥
義仲も御嶽山を懐かしんだのでしょうか?
宮ノ越に義仲館(よしなかやかた)という資料館があり、義仲と巴御前の像が目印です▲