万水川の河童(2)<碌山美術館

民話「万水川(よろずいがわ)の河童」について、新宿・中村屋の創業者夫人の
相馬良(ペンネーム黒光)女史が書き記しています。

黒光夫人は、著作「穂高高原」で、明治30年に相馬家へ嫁入りしてから4年間の
信州・安曇野での暮らしを回想しています。


3月下旬に、新郎の相馬愛蔵に連れられて、穂高に嫁いで来る下る道すがら、
相馬家に代々伝わる接骨術の話を聞きます。
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いつ、どのように医術を得たか記録は無いものの、村では
カッパから教わって骨接ぎ術と、薬の製法を得た」という言い伝えがあります。

そして、万水川に架かる白金橋の西(上の写真左手)の森にカッパを祀る
祠があり、現在は厳島神社となっています▼
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相馬家では家長は代々「安兵衛」を襲名し、現在に至りますが
すでに骨接ぎは行っていません。
湧水池に囲まれた中に祠があり、ご神体の石が祀られています▼
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黒光(旧姓「星良」)は、仙台藩士の娘として生まれ、明治維新後の士族没落により
困窮するなか、キリスト教の洗礼を受けます。

仙台の宣教師の女学校では飽き足らず、横浜のフェリス和英女学校・
明治女学校で学びます。
女学生時代の黒光は、明治時代の文化を彩る1人でした。
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しかし、黒光が書いた小説まがいが新聞の三面記事に載るスキャンダルになったり、
従姉と国木田独歩との離婚騒動に巻き込まれたりして、都会で傷つきます。

そんな頃、仙台の頃から世話になっていた牧師から、信州穂高のクリスチャンを
紹介され、卒業後の結婚が決まりました。
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結局、黒光は農村生活になじめずに夫と共に離郷し、東京に永住することになります。
でも、穂高の地に与えた感化は大きく、その一つに彫刻家・荻原碌山がいます。

碌山(本名「守衛」)は、15歳で相馬愛蔵が作った「禁酒会」に入った、
プロテスタントのメンバーでした。  碌山美術館▼
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18歳の時、愛蔵に嫁いだ黒光が持参した油絵や雑誌に啓発されます。

22歳で碌山は、ニューヨークの美術学校に学び、その後フランスへ渡り
ロダンの彫刻に衝撃を受け、彫刻へ転向☆
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一方、黒光は上京後、本郷で始めたパン屋が軌道に乗り、32歳で新宿に支店を出します。

その翌年、碌山が帰国し、西新宿にアトリエを建て、新宿中村屋は文化サロンの
様相を呈するようになります。

碌山は、黒光に寄せる恋心が募り、黒光をイメージした「女」▼を完成したものの
翌月、新宿中村屋にて吐血し永眠‥享年30歳。
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黒光は著作「穂高高原」で、「人生は短く芸術はながし」と書いています。
碌山の作品は、没後百年以上たった今も碌山美術館に展示されています。
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テーマ : ある日の風景や景色
ジャンル : 写真

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