岩村田宿を歩いて

今まで今まで行ったことのなかった町も歩いてみようと
旧中山道(なかせんどう)ウォーキングをしました。

江戸時代、中山道は江戸・日本橋から武州、上州、信濃
美濃、近江を経て京都・三条大橋までを結ぶ幹線道路でした。

今回は江戸から22番目の宿場があった信州・岩村田宿を歩きました!
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まず、京都の文化が垣間見られる鼻顔稲荷(はなづらいなり)神社
に立ち寄りました▲
伏見神社から勧進され、清水寺の舞台を思わせる懸崖造りの
本殿が、湯川の岸に建っています。
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参道には伏見神社ほどの数ではないものの、朱色の鳥居が並んでいます▲
一応、日本5大稲荷の一つだそうです☆
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本殿の右手に「御姿殿」があって、巻物をくわえたキツネがお出迎え▲
合格祈願の絵馬や、千羽鶴がかかっていました。
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岩村田は佐久地方の城下町として栄え、古くから酒造りが行われてきました。
佐久地方13件の蔵元の地酒が奉納されています▲
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神社一帯は鼻顔公園になっていて、遊具もあります▲
公園の北には、浅間山が間近に開けています☆

湯川に架かる紅い橋を渡って、西へ歩いて行くと旧中山道に突き当たります。
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かつての宿場町は、南北に伸びる岩村田商店街となっています▲

佐久甲州街道分去れの碑が残り、他にも善光寺道、下仁田街道が
分岐する交通の要所でした。

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商店街から西へ入った所に、旧岩村田藩主の菩提寺だった西念寺があります▲

商店街は、昭和レトロの雰囲気が残り、「いわんだゴールデン街」と
いう横丁があります。
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岩村田駅の隣に、北陸新幹線が乗り入れる「佐久平駅」ができて
商店街の客足が減ってしまったようです。

次に、武田信玄が中興開山したという龍雲寺に寄りました▼
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北信濃や西上州進出の拠点とした寺です。
信玄の遺骨が発掘されたとのことで、奥に信玄廟があります▼
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イオンモールや大型チェーン店が続々と建つ佐久平駅に、賑わいは奪われたものの
岩村田には文化が残り、特に佐久長聖高校など、学問のおひざ元です☆

龍雲寺から東へ歩いて、王城公園に行きました▼
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周囲からも目立つケヤキの巨木を拝んで、岩村田を後にしました‥

光城山~長峰山コース

安曇野を展望する「光城山~長峰山コース」を、2月の終わりに歩きました。

車で直接、長峰山山頂近くまで行く道路は、4月まで冬季通行止めのため
光城山(ひかるじょうやま)の駐車場からスタート!

傾斜が急な登りを急いだため、結構息切れして冷たい空気を肺にいれ
ながら山頂にたどり着きました▼
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登山道は、所々雪や氷が残っていて要注意。
青空の下、北アルプスの素晴らしい眺望▼
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この季節は、視界を遮る木の葉が少なく、空気が澄んでいるため
抜群の視界が広がります!
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北へ連なる爺ヶ岳・鹿島槍ヶ岳・五竜岳・白馬岳は、白く冠雪して
スキーに行きたくなります☆

今回は、さらに長峰山に向かいます。
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天平の森という施設を過ぎて、さらに登れば長峰山山頂!
久しぶりに来たら、モニュメントがきれいに塗装されていました▼
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冬季通行止めの時期に来たのは初めてで、斜面には雪が残っています▼

昭和45年に、作家の川端康成・井上靖、画家の東山魁夷が訪れています。
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東山魁夷は長峰山からの風景について語っています。
「上高地から流れ出る梓川が高瀬川と合流し、犀川となって北へ流れる
平野の上に高く連なる北アルプスの山々‥

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‥常念 東天井 燕と長峰山の上で案内人の指し示す残雪の嶺々を
仰ぎながら、飽かず眺めたひとときが忘れられない」

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文中にある川の合流地点は水が豊かな地で、毎年、白鳥がやってきます。

2月の後半には、北帰してしまうのですが、長峰山を下山した後
様子を見に、白鳥飛来地に寄りました▼
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3月の卒業シーズンになりました。
ある卒業文集を読んだら、いい言葉が書いてありました。
背中の重い荷物は大きな翼だよ
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背負うものが重く感じられても、それを翼と考えれば
白鳥のように翼を広げて、大きく飛翔できる☆

安曇野の八面大王

江戸時代、松本藩が編纂した地誌「信府統記」に、
八面大王の伝説が記されています。

昔、中房山に魏石鬼(ぎしき)という名の鬼賊がいた。
八面大王
を称し、永年人びとを困らせていた。
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延暦24年(805年)、坂上田村麻呂が、泉小太郎が住んでいた「川合」▲で
軍兵を揃え、翌年、魏石鬼を退治した。

 
文中にある川合の「川會神社」に行ってみました▼
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川合からは、魏石鬼の宮城があったという「有明山」が一望できます▼

坂上田村麻呂は、魏石鬼の復活を怖れて、体や剣をバラバラにし、
耳は耳塚、首は筑摩神社(松本市)に埋めさせました。
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魏石鬼の耳を葬ったという、耳塚を探しました。
穂高町有明の大塚神社にあると分かり、スマホのナビで突き止めました。
行ってみると、田んぼの中にポツンと鳥居があります▼
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穂高町にある古墳の一つという説があります。

さらに、魏石鬼の剣が埋められたという満願寺に行きました▼
坂上田村麻呂が、魏石鬼を退治するために、満願寺の
十一面観音に祈願したという伝承が残っています。

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この辺りの古墳は、安曇野を開拓した安曇氏が葬られた
と考えられます。
ということは、八面大王のモデルは「安曇族のリーダー」という
仮説が立てられます!

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調べてみると、安曇郡に「魏磯(たかいそ)」という名の郡司が
いたとされ、別名「魏石鬼」と似ています。
坂上田村麻呂に「鬼退治」を命じた桓武天皇は、母方が百済系渡来人で、
地元の豪族を退け、百済系を重用したのです。

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満願寺への道は険しく、人の足跡よりも、サルの足跡の方が多い所で
途中から歩いて向かいました。

有明山の麓、穂高温泉郷にある「八面大王の足湯」にも寄りました▼
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桓武天皇は蝦夷征討のために、安曇郡の兵を出させて
陸奥へ行かせる命令を出しています。

それに、反発した安曇族の群司を懲罰するため、田村麻呂自らが
兵を率いたという説があります。

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そういえば以前、燕岳を登る途中の中房に「合戦小屋」があって、
八面大王の民話を伝えていました。
合戦小屋辺りで、安曇族のリーダーは、征夷大将軍に敗れ、
鬼のレッテルを張られたというのが真相なのでしょうか?

安曇族と八面大王@穂高神社

信州・安曇野に伝わる「八面大王」について調べてみました。

前回は、小林耕氏の著書「安曇族の抹殺と八面大王の正体」の説
を取り上げ、皇統をめぐる争いという説を取り上げました。

さらに、手掛かりを求めて、穂高神社に寄りました▼
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北九州の海人族・安曇氏は海を司る神「綿津見神(わたつみのかみ)」と
その息子とされる穂高見命を、祖神(おやがみ)として祀っていました。

穂高神社は、安曇野開拓に功をたてた安曇氏が、穂高見命を奉斎した古社です。
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穂高見命(ほたかみのみこと)の子孫である安曇氏は、「中国の春秋時代
揚子江下流にあった呉国の亡命者」という説があります。
そして、6世紀ころ信濃にやってきた(送り込まれた?)と、いわれます。
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古代の日本に稲作技術を持ち込んだ安曇氏は、大和朝廷の重臣となります。

その後、皇統の争いに巻き込まれ、たび重なるヤマト王権への反逆で
苦難の道を歩んでいきます。
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それでも、安曇比羅夫は▲天皇の命により、百済王を連れ、将軍として
白村江(はくすきのえ)の戦いに参戦しました。
穂高神社の「御船祭(おふねまつり)」は、玄界灘を行く軍船をぶつけ合い、
白村江での戦いを再現するお祭りです☆

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天智天皇が崩御し、壬申の乱に勝利した安曇血統の大海人皇子が
天武天皇として即位すると、中央政界で復権します。

次に、八面大王が立てこもったと言われる、魏石鬼岩窟(ぎしきのいわや)
がある、有明山神社の方へ行ってみました▼
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安曇氏と高橋氏は天皇の食事の世話をする仕事をしました。

ところが、792年、高橋氏との争いに負けた安曇氏の代表者は
佐渡へ流刑となり、衰亡していくのです。
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正福寺の右手に石仏が並ぶ道があり、歩いて行くと観音堂が見えてきます▲

民話「八面大王」では、都から坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が
鬼退治にやって来て、この岩窟に鬼が立てこもります。

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実際は、巨大な花崗岩で組み立てられた、横穴式古墳です。
穂高町古墳群の一つで、安曇氏のものと考えられます。

中央政権からは、鬼のような扱いを受けたのでしょうか?
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八面大王の正体@大王わさび農場

1月の雪が降った翌日、信州・安曇野にある大王わさび農場に行きました。

「大王」とは、安曇野の民話「八面大王」のことで、この地に
大王の胴体が埋められたと伝えられています。

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昨年出版された、小林耕氏著「安曇皇統の抹殺と八面大王の正体」という
本を、推理小説のように面白く読みました☆

今回は、この著書の説を取り上げましょう!
信州・安曇野を開拓した安曇氏は、元は九州・博多湾岸にいた海人でした
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安曇氏は、後漢の光武帝から「奴國王」の金印を授与された、我が国初の
中国王朝公認の国王となり、小林氏は「第一皇統」と位置づけています。

第二皇統は、朝鮮半島から倭国へ亡命した馬韓王が、九州の日向に入って
天孫降臨し、邪馬台国を吸収して倭国王家に同化した血統としています。

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安曇氏の勢力だった大和国を、第二王統の馬韓亡命軍が征服し、
敗れた奴国・安曇国王の子孫は、信濃の松本盆地に逃亡!

その後、大和を高句麗からの渡来人「蘇我氏」の王朝が支配し
その血筋を第三皇統と名付けています。

日本書記などは、蘇我氏を逆賊扱いしていますが、飛鳥文化を開き、
独立国家を樹立したのは蘇我大王家である、と小林氏は指摘しています。
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第二皇統の天智天皇の後、第一皇統の大海人皇子(天武天皇)が
即位し、安曇系政権となりました。

政権内で、藤原氏が天智皇統への転換を強引に進め、天武天皇の直系の
氷上志計志麻呂(ひがみしけしまろ)らを、流罪にします。


大王わさび農場内にある「大王神社」の拝殿には、大きなワラジ▼
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藤原氏の暗躍により、桓武天皇が即位し、蝦夷征伐に本格着手!
親戚関係にある坂上田村麻呂に、信濃にいる八面大王を打ち取るよう
密命を与えた、と推理できます。
雪に埋もれていますが、大王わさび農場前の八面大王親子像▼
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小林氏は、小泉小太郎の民話や八面大王の正体は、氷上志計志麻呂
であろう、としています。


有明山の麓にある魏石鬼・八面大王の古墳をイメージした岩屋が、
わさび農場内にあります▼
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中国の書によると、海神は八つの人の顔面を持つといいます。

志計志麻呂は海神族の安曇氏の皇統を継承できる地位にいました。

793年、田村麻呂の先発隊は、志計志麻呂抹殺と、祟りの無いように、
遺体を分けて事後処理を行ったのかもしれません。

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岩屋の中に入ってみると、安曇族が乗った宝船の石碑がありました▲
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